パラダイム
昨日受けた教育の中に、こういうはなしが出てきました。
「日本人には『答えは一つ』というパラダイムがある。たとえばある会社の一年間の経営方針をきめる場合に、日本の経営者ならたいてい『わが社の今年はこうだ』とベストの方針を作成する傾向にあるが、イギリスや中国の経営者が作る方針は二本立て三本立てはあたりまえだ」
そういうことはまったく考えたことがなかったため、大変感銘を受けました。
計算問題
そのあと、さらにこういう例が出てきました。
「日本の計算問題は、たとえば、
7+3=□
というように、ひとつの答えをうめる問題になっていることが多いが、
たとえばアメリカの計算問題では、
10=□+□
というふうに、複数あるこたえを自分で作らせる問題がある。日本の計算問題を子供のころからやらされれば、みんな、『こたえはひとつ』だと思いこむようになっても不思議はない」
いやこれにも驚いて「なるほど」と思いましたよ。
しかし、あとで考えると、これは「ニワトリと卵」の問題のようです。
パラダイムが先か、計算問題が先か。
考えかたの筋道としては、「こたえはひとつ」というパラダイムがあり、それをベースに計算問題が作成されたわけで、計算問題がパラダイムを作っているわけではないでしょう。
ましてや、計算問題を変えるだけでパラダイムが払拭されるならば、それはパラダイムではなかったことになります。
多分、計算問題を変えたら、今度は、
「こたえはひとつではない」
という、それこそ「ひとつのこたえ」だけをみんな信奉するようになるのではないでしょうか。
さて
それで、いま悩んでいるのは、わたしのこの思考の道筋が、どのくらい「こたえはひとつ」というパラダイムに影響されているかということです。
「このかっこの中の文章はあやまりだ」は真か偽か?
今日の画像
そろそろ猫もネタ切れ。
秋葉原のひとごみです。