コールスロー

世界というジグソーパズルの1ピース

かぞえ歳の合理性

本多静六の本を読んでいて、文章が若々しいのに「もう八十六になるが…」とあるのでおどろいた。
「一体いくつまで生きたのだろう」と著者略歴を見ると、八十五歳で亡くなっていた。ありゃ。
「しっかりしているようで、歳がわからないくらいボケてたのかな、それともサバをよんでいたとか」などと失礼なことを考えながら生年を確認して謎がとけた。著者はかぞえ歳を使っているのだが、編集者は満年齢を記載しているのだ。計算すると、本多静六はかぞえ八十七のときに没している。
以前は「生まれたときはひとつ、正月がくるとふたつ」というかぞえ歳の考えかたは、なんとなく不合理に感じられた。しかし先日『素数に憑かれた人たち』(ジョン・ダービーシャー 日経BP)を読み、かならずしもそうではないということを知った。
まず、満年齢というのは、「生まれてからの時間」をあらわすものであるが、かぞえ歳は、「生後(天から)さずけられた年の個数」をあらわしている。この「年」は暦や会計年度を想像するとよい。半分の暦や半分の年度という概念はないから、生まれたときにはひとつめの、新年がくればその年を、文字どおり「とる」のだ。
思うに、むかしは旧年と新年のあいだにいまよりはっきりとした区切りがあったのだろう。もちろん、年という概念自体、人間が作ったものだが、たとえば「青い敷石しか踏まない」というルールをみずからに課したこどもが道の模様のかわりめで立ちすくむように、冬がおとづれて年末になると、その先に来年はないかもしれないという不安がみなの心をよぎったのだ。
だから商売のツケは大晦日までに支払うものであり、またとりたてるものであった。そして、無事に新しい年がくると「明けましておめでとう」と言いかわし、よろこびとともに、その年を年齢にくわえたわけだ。
こう考えると、故人の没年齢をあらわすのに使用する「享年××」の××に満年齢をつかうのもおさまりが悪いような気がしてくる。これは「享(う)けた年」、つまり天からもらった年の数であるから、本来はかぞえ歳を使うものであろう*1
かぞえ歳の方式でよいなと思うのは、まず、年齢を計算するときに誕生日を意識しなくてもよいという点である。生年さえわかれば、ある人の現在の歳も、そして故人であれば享年も即座にわかる。満年齢では、何月何日うまれかわからなければ何歳で亡くなったかもしるせないことになる。ひと月ふた月のちがいが大きな意味をもつ生後数年間をのぞけば、人間の年齢はだいたいでよいのである。満年齢は無用に厳密なのだ。
また、他人の誕生日をおぼえなくてすむという利点もある。わたしはあまり自分の誕生日を気にかけない方だが、これを周囲の人間にまで拡張して適用すると、とたんに問題が生じる。具体的には家族や友人や恋人からなじられ、冷血漢あつかいされる。かぞえ歳ならば正月にみんなまとめて祝うため、なんの問題もないというのに。
そしてなにより、余分なプレゼントがいらないところがすばらしい。こどもに対する贈りものが、正月のお年玉一回ですむのだ。逆に、現代のこどもたちは誕生日のプレゼントとお年玉の二重どりをしているのだともいえる。
もう誰からもお年玉をもらうことのなくなった身としては、かぞえ歳を復活させてほしいと切にねがう次第である。

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最近、「冥土カフェ」というのがはやっていると友人から聞いた。これは想像図。

書籍データ

私の生活流儀
私の生活流儀
posted with 簡単リンクくん at 2005. 9.22
本多 静六著 / 本多 健一監修
実業之日本社 (2005.7)
通常24時間以内に発送します。

素数に憑かれた人たち
ジョン・ダービーシャー著 / 松浦 俊輔訳
日経BP社 (2004.8)
通常24時間以内に発送します。

*1:もちろん現代では厄払いのときをのぞいてかぞえ歳はほぼ絶滅しているから、享年という言葉自体の意味が変化しており、現代の用法に異をとなえるつもりはない。