コールスロー

世界というジグソーパズルの1ピース

ロシア製の昭和天皇はちょっとツァーリ風味―『太陽』(アレクサンドル・ソクーロフ監督)

アレクサンドル・ソクーロフ監督の『太陽』は、二次大戦終結直前から「人間宣言」までの昭和天皇をえがいている。現人神にして国体の中心でありながら、なかば継子あつかいの昭和天皇を中心とした「半径五メートル」のできごとのみが、感情表現のすくない乾いた文体で描写されてゆく。ある種空想上の存在にしたてあげられた君主の孤独と、粗野なアメリカ「近代文明」に蹂躙される伝統の姿がいたましくも滑稽である。
イッセー尾形演じる昭和天皇はまさにはまり役。長年微妙なしぐさや表情であまたの人々を演じわけてきた彼が、言葉少なく表情にも乏しいようにみえる昭和天皇をやるのは当然のような気がしてくる。桃井かおりも「かおり分九十七パーセントカット」で好演していた。
ただ、昭和にうまれ、少なからずあの時代に興味をもち、昭和天皇に親しみを感じるものとしては、スクリーンの昭和天皇に大きな違和感を感じたこともいなめない。
この映画の主人公は、当時の誰よりもすぐれた国際感覚をもちながらも、国家の滅亡につづく戦争をとどめえなかった苦悩の君主ではなく、国家存亡の危機にもヘイケガニの美しさに専門用語を駆使して感嘆し、御前会議ではダーウィニズムにまで言及した言語明瞭意味不明の御聖断をくりだす裸の王様なのだ*1
まあ、この映画の目的は史実をつたえることではないことは、歴史映画につきものの正確な日付のみならず、人名さえ一切でてこないことで明白に示されている。だから映画だけで厳密に判断しようとすれば、劇中で「お上」*2とよばれ、「あ、そう」とこたえる人物が昭和天皇なのかも実はわからないのだ。ひょっとしたら自分を天皇だと思いこんでいるイッセー尾形なのかもしれない。
また、実務的には無能で大事のときにはおろおろするばかりであったり、逆に空気を読めずに超然としていたりするのはヨーロッパの伝統的な王侯貴族の描きかたなのだろう。
そういった雑念をふりはらい、昭和史のことは一切忘れ、心だけヨーロッパ人になりきれば、素直に「おもしろい。ニホンのエンペラーって、ヘンなヤツなんだな」と楽しめるにちがいない。
見終わって、「彼」はどう思うのだろうかと気になった。今はなき、もとい、泉下の、じゃなくて、ええと、どこかにおかくれのはずの彼に「こんな映画がでたんですけど」と報告し、反応をみてみたい。
といいつつ、もうこたえはわかっている。小柄な彼は、うつむきかげんでかすかに頷きながら丁寧に耳をかたむけ、こう言ってくれるにちがいない。
「あ、そう」

画像(写真日記今日の空

すっかり秋なんですけど。

*1:内緒だが、わたしはあの会議で戦争が終結したとは思わず、いきなりアメリカの最高司令官(らしき人物)があらわれて仰天した。

*2:「陛下」から修正。侍従たちはそうよんでいた。