「欠」と「缺」―国語改革のシッポ
Ardbegさんの「身辺雑記 - ardbeg1958」に掲載された記事、「[本][言葉] 自戒」にちょっと長いコメント。話題としてはズレ気味なのでこちらに書きます。
わたしも小学校時代に「飲」という字を習ったときに、「食に欠ける」だと思い、そう暗記していました。でも、「欠」にはもともと「かける」という意味はないんですね。
もうお読みかもしれませんが、高島俊男さんの著書『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(文春文庫)の冒頭にあるエッセイ「あくび問答」に「欠」と「缺」の話があります。「欠」(ケン)と「缺」(ケツ)はもともと別の字で、「欠」はArdbegさんがお書きのとおり口をあけることです。だから「欠伸」が「口をあけて伸びをする」で、あくびなんですね。このエッセイを読むまでは、「かけて伸びる、ってなんだろう、それとも伸びにかける、かな」と不思議に思っていました。対して「缺」はかけるという意味をもちます。
なぜ別の字がごっちゃになったかというと、「欠」は昔から使用されていた「缺」の手書き字体(右の「夬」は「央」の一部がかけて「かける」という意味らしい*1)で、それが現在は印刷用(つまり正式な)字体として通用しているため、いまの混乱をまねいています。この文章では書かれていませんが、これも、戦後おこなわれたいわゆる「国語改革」がもたらしたものです。
これは別のエッセイでお書きになっていたことですが、国語改革に納得していない高島さんは、絶対に「欠点」、「欠陥」とは書きません。どうしてもその表現が必要な場合は、「缺点」、「缺陥」と書くそうです。しかし、これだと校正で旧字とみなされて「欠」となおされるおそれが大なので、極力ことなる言葉で表現するとか。
最初に読んだときには気づきませんでしたが、この五ページほどのエッセイに、のちにベストセラーとなった『漢字と日本人』(文春新書)全編の考えがすべて入っており、みごとな要約となっています。また、明言されてはいませんが、国語改革への批判にもなっています。
書籍データ
画像
国語改革の缺陥。
ちょっと修正。
わたしの立場を明確にするため、画像をちといじりました。
*1:漢語林には別の解釈が書いてありました。