コールスロー

世界というジグソーパズルの1ピース

文学は文学と世界から作られる

早起きしたのでごはんを食べながらテレビをつける。「NHK俳壇7月21日分」をやっていた。
坊城俊樹というひとが選者なのだが、この人がなんだかこころもとない。
たとえば今日は、

濡れ髪を人魚座りの海女が梳く

という句が選ばれていた。うまい。「人魚座り」という語の使用*1が主眼である。
これを評しているときに、坊城さん、となりの女性アナウンサーに「『人魚座り』って、知ってますか?」と聞いた。女性アナウンサーが、「あの、こうして、足というか、人魚ですからひれをよこに流して…」と説明しているときに、すかさず、

ローレライ、ですかね」

と言った。うがぁ〜。ローレライライン川にいる美声をもつ魔の乙女っ。「人魚」といえばコペンハーゲンの人魚姫像*2でしょうが。しかし、今調べてみると、ローレライは「髪を梳く」らしい。そうか。そっちのイメージで人魚の説明もしちゃったのか。いずれにせよおそまつだ。そして、いよいよこの句の巧妙さがきわだつ。人魚姫とローレライのイメージを二重写しにした引用。それに日本の海女の印象がくわわる。三重写しだ。なかなかできませんよこれは。坊城さん、気づいているのかなあ。
そういえばこの人以前、「書を捨てて野に出れば菜の花が云々」というような句を評しているときに、

「『書を捨てよ、町へ出よう』という言葉もありましたね」

と言っていた。そのときも「うがぁ〜っ」と思ったよ。「寺山修司の本」となぜ言えん。
過去の作品の引用は文学の大事な機能のひとつである。
松尾芭蕉とその弟子達は、古典に親しみ、それを歌仙のなかに巧妙に引用した。もちろん、読んでいるがわがそれに気づかずに評してしまえば負けである。それも、自分が知らないうちにほかの全員から「負け」と判定されてしまうおそろしい負けかたである。だからみな古典をしっかり身につけようとした。
ひるがえって現代の俳人歌人は現代俳句や短歌の勉強ばかりしていて、世界が狭いような気がする。古典的教養ばかりではない。世間一般の教養もなんだかたよりない。そういうありさまだと、作るときも評するときも、作品を世界とむすびつけるのは困難なのではないか。このての番組で、プロの俳人歌人が感性だけの評をして、ときどき重要な引用や常識に気づかないでいるいるのをみていると、非常に心配になる。
で、今のところ、わたしの判定では坊城さん二敗ですが、大丈夫ですか?

*1:Googleで検索したら用例あり。「発明」じゃないのね。

*2:旅行者の「世界三大がっかり」のひとつ。小さいらしい。