コールスロー

世界というジグソーパズルの1ピース

心を差別からときはなつことのむづかしさ

米国で何人かのポーランド人と知りあいになった。みな人がよく、ユーモアがあり、頭がよかった。なにより欧米人のもつアクがすくなかった。もちろんそうでない人もいるのだろうが。
歴史的にみるとポーランドは、周辺国*1の政治ゲームでコマ代わりにされ、大量虐殺にあい、はては社会主義化され、さんざんなめにあっている。友人たちも母国の状況がいやになり米国にきたはずだが、それでもポーランド王室への敬意をうしなわず、祖国を愛しつづけていた。うらやましかった。
だから、そういう人たちでもユダヤ人にうっすらとした差別感情をもっていると知ったときにはおどろいた。
わたしがニューヨークのカメラ店でボラれかけたときの話をしていると「それは絶対にユダヤ人の店だ。彼らの商売はそうなんだ」というのだ。
いわれてみるとそんな気がしてきた。大学にひとりいたユダヤ人学生の尊大な態度も「内では敬虔な神のしもべとして、外には選民としてふるまう」ユダヤ人気質なのだと腑におちた。
差別と逆差別と差別と。今でもときどきこのことを思いだし、のどになにかつかえたような気になる。

*1:ロシアやドイツ、それにソビエトと悪役ぞろい。